2016年11月18日

君の名は、白。

『君の名は。』、楽しんだか楽しんでないか、という観点から言えば「まあまあ」だった。
序中盤の「『転校生』パート」のPV的処理はRADWIMPSの劇番も相まって(ここを丁寧に描く必要はないのか、との疑問はあれど)多幸感があったし、新海作品だけあって「止め絵の美しさ」と「アニメーション」が共存している画面作りはさすがである。
が、そういう「作りたい画」が先行してそこに至る過程の描写−つまり"萌え"が不足している。また根幹の設定に対するツメの甘さ、更にはそのルールすら終盤であっさり破綻させる部分(そのまま行った方が泣けるじゃんポイント)は、好みの問題も大きいが決して構成が上手いとは思えなかった。あとRADWIMPSが歌い上げ過ぎて、おれが映画(とくに邦画)で苦手な「こちらの感動を追い越して泣かせにかかる演出」になっていたのがなんともキツかった。


しかし、である。
それでもおれは『君の名は。』は素晴らしい映画だと思う。後々まで語り継がれる映画だと思う。全体的に穴は見えるし語り口も好みでもないが、あるワンカットゆえに、おれはこの映画を評価せざるを得ない。
そういう一瞬がある映画だったのは、確かだ。その一瞬、間違いなく映画館でおれは感動していたんだ。

パンチラ。
覚えていない方もいるかも知れない。『君の名は。』の感想を何人かと話したが、「そんなシーンあったか?」と言われた。
ばかやろう、である。
言葉乱れてしまうがあのワンシーンこそ今作が日本のアニメーションに一石を投じているポイントだろう、と。

何を描くか、とは何を描かないかである。よく言われる言い回しだ。
まず押させておくと、おれが思うアニメーションの快楽とは文字その名の通り"動き"にある。静的な絵に動きを与える−まるで"活きて"いるかのように。もちろん完全にそれを動かすことはできない、どれだけリアルに動こうともコマとコマには"空白"ができる。枚数を描けば描くだけ、リアルには近くが、それは近似値に過ぎない。更には実際の現場は時間的予算的技術的制約の中(たとえ劇場版)そこまで描きこめないことが多い。そうなってくると、むしろ「リアルな描きこみ」より「何を描かないか」というディレクションが重要になってくる。本質的に何をもって我々はキャラクターの動作を「リアルだ」と感じるのか?"写実"を目指すための"省略"、そして"省略"できてしまうからこそそれを避けるリアリテイへの"徹底"、それは執念と言い換えてもいい。『風立ちぬ』『かぐや姫』なんてその産物だ。ワンアクションへの偏執的拘りがありつつ、平気で嘘(フィクション)の動きをさせる。省略と徹底、一見レトリックに聞こえるがアニメーションの快楽はここから生まれる。

で、『君の名は。』の話だ。
まだパンチラシーンがどこか思い出せない方のために説明すると、終盤、口噛み酒を呑んだ瀧が水葉と再度入れ替わり、村人を避難させようと奔走する場面でのことだ。
万策尽きた瀧(身体は水葉)は最後の手段として水葉(瀧の身体で御神体の所にいる、時系列的には設定おかしいが)を呼び戻すため、自転車で山頂を目指す。
必死に山路を登る瀧(しつこいが身体は水葉)、流れる汗、上がる息、立ち漕ぎ、ここで、パンチラだ!しかも白だ!
、、、我ながら妙なテンションである。

このパンチラシーンの凄さは、「さり気なさ」だ。
前述のように、あまりにも自然過ぎて観た人の印象に残らない。だから凄いのだ。
現代のアニメ(またはアニメ的演出の)作品で、パンチラは使い倒されている。女子のスカート丈はパンチラ合わせ、無用なローアングル、なぜかツッコミはハイキック、それはもはやパンチラのためのパンチラだ。チラリズムなんて奥ゆかしさは消え失せて、「見せときゃいいんだろ」と言わんばかりの大量生産。見えるからいいんだろ見せるなよ、の声も虚しく響き渡る。
しかし『君の名は。』のパンチラは氾濫する乱造粗製のパンチラへのカウンターだ。自転車に飛び乗ってからの疾走感溢れる編集と細かいモーション演出がまずあって、そこから極々自然に動きのなかでよパンチラ、なのだ。先ほど書いた、アニメーション的快楽満載のアクションの帰結としての、「そう、この画角でこのアクションなら見えるよね」というナチュラルなパンチラなのだ。説得力が違うのだ。しかも見えたか見えないかいや確かに見えた、という絶妙な尺で。パンチラは本来、こういった偶然と状況とタイミングが作り上げる、"奇跡"でなければならない。だから素晴らしい。パンチラをしようと思ってやるパンチラはパンチラではないのだ。
また、水葉のスカート丈は一般的なそれであり、余程全力で立ち漕ぎしなければパンツは見えない。そう、このパンチラはだだのパンチラではない、「全力」を表現するための物語的意味も兼ね備えたパンチラなのだ。
このように、『君の名は。』のパンチラは即物的簡易エロ表現サービスカットと一緒にしてはならない。

もうひとつ、先ほどから何度も断り書きを入れているが、あくまでパンチラしているのはヒロイン水葉ではなく、主人公の男子、瀧なのである。『君の名は。』のアニメーションの凄みは、ちゃんと男女の入れ替わりをアクションで表現していること。キャラクターの動きが、男性的・女性的に目に見えて変わるのだ。また、主演2人の声優としての芝居の上手さもあって、単なるよくある設定としての「入れ替わりモノ」ではなく、高いレベルでの表現になっているのだ。
「あくまで瀧のパンチラである」というのはもちろん、「女性キャラにはパンチラさせろ」というセクハラ的表現(もはやミソジニーだと思う表現に溢れている現状を鑑みるに)へのエクスキューズでありアンチテーゼ、と読むこともできる。しかしおれはそれと同時にこのシーンが、パンチラが本来持つ"聖性"をも表現していると感じた。なぜなら、少なくともおれは、それが男子高校生のパンチラなのにドキッとしたから。たとえ瀧くんのでも、「白だ!」と思ったから。それだけのインパクトと多幸感が、パンチラにはあるから。
現実でパンチラを目撃するとき、我々はどういう状態だろうか。まず全く身構えてないので、「まさか」との驚きがある。そしてどうしようもない罪悪感と背徳感とそれでも「ラッキー」という不純な喜びがある。そこで初めて、誰のパンチラかということを確認する。ときには確認して後悔する。
そのリアル・パンチラと同じ思考を辿れるのが『君の名は。』のパンチラシーンなのだ。アニメーションの流れの中での突然のパンチラ、驚きと罪の意識と幸せ、そこからの「瀧くんかよ!」、、、これがアニメの持つ、リアリティの力だと思う。

パンチラなんて死んだ表現だと思っていたおれに、新鮮な感動を与えてくれた『君の名は。』、間違いなく2016年を代表する一本だと思う。

だからこそ、SF的ロジックと過程の描写を丁寧にやってくれよ!もったいないよ!なのである。















posted by 淺越岳人 at 16:53| Comment(0) | TrackBack(0) | ラグランジュプロジェクト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月19日

感想文:『ナイゲン(2016年版)』

経験者としての情感と、批評者としての分析と、プレイヤーとしての提言と憧憬と、観客としてのファン心理と。
あと元・国府台高校生で3年1組花鳥風月でナイゲンに出席してた、というあのときの自分自身と。

どの階層の自分がどの視点でどの感想を持っているのか、解らないまま書いている。でも解らないからこそ書くべきなんだ。
どの階層のどの視点の俺も、そこだけは一致している。

『ナイゲン(2016年版)』、シアターミラクルにて。
言うまでもなく我々アガリスクエンターテイメントの最高傑作のひとつ(ひとつ、であると敢えて言おう)で、有難いことに各所で上演されている。
贔屓目に見られているかはもちろん解らないし自分で言うのももちろんナンだが、俺は現代コメディシーンにおけるマスターピースに成りかけている、と思っている。
だってこの夏だけで3公演だぜ?他にあるかそんなコメディ?

そんな手前味噌はどうでも良いのだ。
『ナイゲン』の話だ。

久しぶりのシアターミラクルでの観劇、というのもあるが、アガリスクがミラクルで『ナイゲン』を演ったのが3年前。ほぼ変わらない舞台セットも併せて、劇場に入った瞬間になにか強烈な既視感と懐かしさと少しの喪失感と、、、とにかく出来上がってしまっていた。ああ、冷静に楽しむのは無理だな、と覚悟した。事実その通りだった。

当たり前だが俳優も演出も違う、だから芝居として全く違う。俳優陣の年代もかなり若い。そもそも「ナイゲン」という行事も「国府台高校」も知らない人間が創る『ナイゲン』。それは、当然の如く別の作品だ。それでいい。そしてそれがいい。

ただ。
俺はどうしても「『ナイゲン』はコメディである」というところに拘ってしまう。アガリスクはコメディ劇団で俺はコメディ俳優だから、コメディとして強いかどうかで先ず観てしまう。そういう意味では、気になる点がないとは言えない。余計な諫言であることは重々承知で書くから余計とか言わせない。
抽象的な表現になるが「踏み込み」と「信頼」が足りないと思う。コメディとは「笑いを獲ろうとする姿勢」によってコメディたらしめられる。笑いが起こることによってコメディになるのでは遅い。それではコメディに「させられて」いる。アグレッシヴに、例え観客に響かなくとも仕掛けていくこと。しかしそれは決して個人で突破するものではなく、座組のグルーヴによって作り上げるものだ。ネタの構造を信じて、ゴールを設定しそれを共有し、そこ目指してパスを繋いでいく。個人の熱量も技術も、ネタを成立させるために最適化させる。笑える空気を産み出す半歩の「踏み込み」と、足並を揃えるためのネタへの「信頼」。コメディのドライヴ感を作り出すのは、その2つだと思う。

という感想を持ちつつも一方で、不思議な感覚があった。
「『ナイゲン』はコメディなのか?」と。

実は今までも何度か考えたテーマだ。
まず『ナイゲン』は脚本上、徹頭徹尾笑えるように書かれていない。それだけでなく、最終的な着地点も笑いではないし、そもそもの骨組が、コメディのそれではない。テキストレベルで言えば、コメディとして演じなくても演出しなくても成立するのだ。つまり、コメディとしてはデザイン的に歪であり、構造上かなり弱い。
しかし歪で弱いからウケないか、というとそうでもなくて、その分(ある種の手当・ゴマカシとして)ネタの強度は強目に作ってある。それが余計に一本の物語として見るとアンビバレンツなものになってしまっている。だから正直コメディの脚本として巧いかどうかと問われると、色々アラが出てくる。
そういう意味で、『ナイゲン』をコメディとして捉えない、と言うと言い過ぎだがその視点を一回外すことは、アリだと思うのだ。なぜなら、俺たちには絶対にできないから。ウケるかウケないか以外のモノサシを持たないから。
今回の『ナイゲン』では「笑いを獲る」セリフ回しはそこまで重視されていなかったように思える。コメディ野郎としてはそれを「もったいない」と感じるものの、それでも客席には響いていたりして、それはとても不思議な感覚だった。なんだろう、カヴァーというより、変奏曲みたいな。俺が思い描くのと全く別のリズム感の、解釈の『ナイゲン』。まるでパラレルワールド。

そこに若干の淋しさを感じつつ、だからこそ思う。そうじゃなきゃ。アガリスクエンターテイメントから、飛び立った『ナイゲン』は、それぞれ勝手に進化を遂げる。変化ではなく、それは間違いなく進化だ。多様な解釈の差分、そうやってこそ多様な他者に受容される。オリジネーターではリーチし得なかった誰かに届く。
物語の適応放散。個人の儀式でしかなかった脚本が、世界に拡がる。
それは涙が出るほど素敵なことだ。なぜなら『ナイゲン』はそういう物語だから。形は変わっても遺る魂、その「継承」と「発展」への賛歌なのだ。いや、魂すら変容しても良いのかも知れない。アガリスクにとっての「コメディ」という核の部分だって、組換え可能なパーツの一部に過ぎないのだろう。
それでも、「めんどくせえ学校」が紡がれていく。誰かの手によって。『ナイゲン』はきっとそういう作品なのだ。

と思いつつもやはり思う。
死ぬ前にもう一回アイスクリースマスと花鳥風月やりてえなあ。

やらないけど。この気持もいつか変容するのだろうか。





posted by 淺越岳人 at 01:34| Comment(0) | TrackBack(0) | ラグランジュプロジェクト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月25日

クロスジエッジ

物語は「エッジが効いて」いなければ、とよく思う。
あ、断っておくがしばしば「パンク」とか「カルト」と同義に使われることがある「エッジが効いている」という表現だけど、おれはそういう意味では使わない。使いたくない。
エッジとは「境界」、彼方と此方の境目。「A」と「B」または「A」と「A’」の相違を顕在化する線もしくは点。本来平行線のはずの議論が交差し、出会わなかったかもしれない立場が交錯し、個人の論理と倫理と感情が衝突する場。
問題提議がはっきりとなされ、個人の意見/価値観が集中する、いわば力場みたいな状況を設定しそれに登場人物が直面する。それが明確にシーンとして立ち上がっている。そしてそれを説得力を持った手段で超克する、もしくはそれに敗北することで何らかの成長を遂げる。
そういった輪郭線がパキッと決まっている物語を、「エッジが効いている」と俺は評する。

で、本来ならここで具体例を引いて「この作品のここが凄い」とか「ここがダメ」とかそういうこと(ちなみに最近読んだ中だと宮内悠介『彼女がエスパーだったころ』がそういう意味で傑作です)を書くのだろうけど今日はそうじゃなくて。

何の話かと言うと。

イギリスのEU離脱のニュースが面白くて。正直中学のころ「9.11」の映像を観たあのときの興奮に近いものがある。あれほどのヴィジュアル的なインパクトはないが、徐々に投票の趨勢が判明し、その結果に世界中が注視し一喜一憂し、ダイレクトに大きなうねりとなって局面が変動していく。
世界史の「ゲルマン人の大移動」のくだりが大好きなんだけど、あれと似たスペクタクルを感じるのだ。飛び火してスコットランドが英連邦の離脱・EU残留を目指す、なんと刺激的で史劇的な展開だ。

まあ要するに文字通り対岸の火事、だってことなんだろうけど。
そういう興味の視点だけで書くから、無責任だよ、という宣言が既に無責任なんだけど。

離脱・断絶、という結果よりもこれが国民投票によって得られた回答、という点について考えている。あるビッグ・イシューについて個々人がその立場を鮮明にして意見を表明するということ、その場が設定されること、それ自体が「断絶」なのではないか、と。
たぶん誰しも不満や憤り、そしてそれから発生する敵愾心や偏見は抱えていて、でもそれを現実に表出しようとも反映しようとも思っていない。そもそも、それは意見にできるほど形成されていない。もっと不定形で、曖昧な感情だ。だからこそ「それはそれ」として、上手くやっていける。
しかし、それが直接表明できる場が設定されたら。しかも、単純な二項対立の図式で選択を迫られたら。
それによって、結果の如何に関わらず対立が産まれるのではないか。今まで腹の底に抑えていたものが、「A」か「B」かまたは「A」か「A’」か、といった解りやすい形に剪定される。曖昧だった感情が二極化される。
境界(エッジ)によって断絶される。

そう考えると、民主主義的であるはずの「国民投票」自体が、断絶を顕在化させる装置になってしまっていないか、と思うのである。
だとしたら。
かと言って「声を上げること」「意見を反映させること」を手離すことはあり得ないし、とここでどうにも唸ってしまうのである。頭を捻ってしまうのである。

できることとしたら、境界の手前で引き返すこと。曖昧な感情を、曖昧なままにしておくこと。エッジを回避すること。「きわ」に行く前段階の、融和を目指すこと。
後ろ向きかも知れないが、今はそれくらいしか思いつかない。

で、現実の危機はこれくらいにして「物語」の話に戻るのだが、だとすれば良い意味で「エッジを効かせない」物語も面白いんじゃないかと思ってきたのである。
境界に行くか、というところで全力で回避する。というか、その回避自体が一種の境界として設定してある。
まあもちろん、それで物語として「ヌケる」のか、結局その境界が観られないなら不満だろ、という気はするのだが。だけど、現実にその回避が正解のひとつなのだとしたら、物語でもそれは取りうる方法のはずだ。
上田早夕里『華竜の宮』が実はそうだったのかもな、と思う。そしてとても面白かった。
posted by 淺越岳人 at 02:22| Comment(0) | TrackBack(0) | ラグランジュプロジェクト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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